【映画】 巡礼の約束、チベットの気脈 映画『巡礼の約束』ソンタルジャ監督インタビュー 2020年2月10日

 ラサへの五体投地巡礼を決心する妻、とまどう夫、わだかまる息子。映画『巡礼の約束』は、遺灰を混ぜた携帯仏ツァツァや灯明の花など小道具の逐一までが味わい深い。巡礼からの帰途につく男を撮るデビュー作『陽に灼けた道』(2011)、チベット遊牧民の幼女と父や出家した祖父との関係性を描く『草原の河』(2015)と作品ごとに現代チベット映画の最前線を更新してきたソンタルジャ監督新作は、物語的厚みをさらに増した。本作の日本公開に併せ来日した監督と、主演を務めたヨンジョンジャさんに話を聞いた。

『巡礼の約束』 “阿拉姜色” “Ala Changso”

 

 五体投地による巡礼という、チベット仏教における最高儀礼。南アジアからインドシナ、北東アジアを包み込む仏教文化圏広範において礼拝の基礎は仏法僧(仏陀・仏法・僧伽)の三宝への帰依であり、五体投地は両手・両膝・額を地へ投げ伏し絶対的な帰依を示す、最も深い礼拝の作法となる。日本でも東大寺や高野山など奈良仏教の系譜へ連なる寺々には形式的に残るその作法が、チベット仏教圏では今日も巡礼の流儀として庶民一般に行われる。一度に2mほどしか進めない五体投地で数千kmを旅するその姿は、中国政府の統制と経済合理性による急速な社会変化のもとに暮らすチベットの人々にとって文化的アイデンティティの象徴そのものだ。

 『巡礼の約束』中盤では、妻の唐突な巡礼の決意が医者による余命の宣告と、前夫とのある約束を理由とすることが明かされる。故人とはいえ別の男との約束を妻が胸に秘すと知った夫の心中は穏やかでないが、彼が抱えるこの動揺の帰趨こそが映画後半の軸となる。こうして若い女性ふたりを助手に伴う妻を中心とする前半部から、血のつながらない息子を伴う夫へと旅の主役を切り換えることで、単線的な巡礼の光景を多層化して見せる監督の手際は鮮やかだ。

『草原の河』 “河” “River” “Gtsngbo”

 ソンタルジャ監督の前作『草原の河』(2015)は、チベット人監督によるチベット舞台の作品として日本では初めての商業公開映画となったが、2017年春の国内公開時に話題を呼んだその圧倒的な映像感覚を巡っては、大半のレビューがチベット固有の文化的ギミックや高原の絶景に帰して済ませた。けれど仔細にみるなら、乳離れ前の幼女に主人公視点を置く『草原の河』の素朴な心象を醸す画作りの底には、極めて微細な手つきが潜んでいる。たとえば父の屈折を描く中盤では、文革後家族を捨て僧侶へ戻った祖父の顔が決して映されない。分断の象徴たる河面に照り返す雪解けの白光は、いわば隠された祖父の顔に集約される個を超えた時間性の偉大さを伴って、スクリーンから眼を通し観客の心奥へと鋭く差し込んでくる。この鮮やかさ。

 『巡礼の約束』は当初、現代チベット歌謡を代表する歌い手でもある本作主演ヨンジョンジャによる、出身地ギャロンの地方文化を映画にして伝えたいとの着想から始まった。しかしソンタルジャ監督は本作の製作が進むなかで、むしろ人間の普遍的本質への焦点化によりギャロン文化の核心に迫れるのではと姿勢の変化を自覚したという。同じ巡礼の旅路が映されながら前半と後半で描かれる心象風景が大きく変わる本作の構成には、この変化が明晰に反映される。妻は前夫の遺灰が混ざる粘土仏を隠し持ち、病を明かさず実の両親へ別れの三拝を捧げる彼女の祈りに個人的かつ現代的な葛藤が暗示されるのに対し、息子との関係性や妻の前夫に対する嫉妬心を祈りによって克服しゆく夫が見せる映画後半での昇華は、「衆生のため」即ち他者のために祈る大乗仏教の美質をよく体現する。

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 ラサ巡礼を描く映画としては、2015年製作の『ラサへの歩き方 祈りの2400km』が日本公開され耳目を集めたことも記憶に新しい。こちらは老若男女11人の村人が揃って聖地ラサと聖山カイラスを目指すドキュメンタリー調の語り口が特徴だったが、これと比較したとき『巡礼の約束』が際立つのは、やはりその徹底した目線の低さと近しさだ。『ラサへの歩き方』の張楊監督が漢族であることや、昨今の中国における宗教や芸術表現への抑圧を絡めこの点を問うと、監督からは熱の篭る回答が返ってきた。

 「赤ん坊の誕生から老人の死までを盛り込む『ラサへの歩き方』では、チベットの死生観が概念的に撮られました。仰る通りラサ巡礼を客観視するその手つきが漢族の監督ゆえということはあるのでしょう。しかしこれに限らず過去の映画群に顕著であった《チベット》を記号化する傾向に対し、私たちはその必要がないと考えます。チベットの映画だからとマニ車やチベット寺院ばかり映るとすれば、日本が題材だから着物や富士山ばかり撮るのと同じレッテル貼りに過ぎません。信仰をめぐる表現についても同じことが言えますね。どんな宗教であれ、信仰を持てるということはとても幸せなことです。現代人の日常がかつての宗教的な作法から遠のいている点ではチベット人も世界の人々と変わりません。しかし敢えて記号化して描かずとも、スマホをいじりバイクに乗る私たちに近しいものとして信仰は依然ある。何かの主張のためでなく自明のものとしてそれらを撮ったので、政治的な検閲等をとくに警戒する必要も感じませんでした」

 2019年は、張芸謀(チャン・イーモウ)や婁燁(ロウ・イエ)など中国映画を代表する漢族の巨匠さえも海外映画祭への出品中止や国内公開の唐突な延期など当局の検閲に苦しんだことをよく踏まえた上で、ソンタルジャ監督はそう答えた。「敢えて記号化せず自明のものとして撮る」という言葉には、本作出演のジンバが主演する『気球』で第20回東京フィルメックスにて最優秀作品賞を獲得したペマツェテンらと並び、チベット人映画監督の第一世代を牽引しつづけるソンタルジャの矜持がよく宿る。 

『気球』”气球” “Balloon”

 ちなみに、今日のチベットを代表する(中国国内の)四大地方文化としてはラサ・カム・アムド・ギャロンが挙げられ、各々に固有の方言をもっている。本作でプロデューサーを兼任した主演のヨンジョンジャが母語とするギャロン語は言語学的にチベット・ビルマ語族とされ、ソンタルジャ監督が母語とするシナ・チベット語族のアムド語とは意思疎通が不可能なほどに遠いという。この遠さは映画本編にもよく反映されており、特にヨンジョンジャ扮する夫は巡礼の途上で会う人々に対し、ギャロンの言葉をしばしばラサの言葉へ言い換える。

 『巡礼の約束』は、一語で括られがちなチベット文化の内的多様性に対するこうした意識が非常に高い。自ら起こした交通事故で母を失くした若い男の内面を巡礼の道に重ねるデビュー作『陽に灼けた道』(2011)から、現代のチベット高原を生き抜く家族へ焦点化した『草原の河』(2015)を経て本作へ至った足取りを考えあわせると、それはソンタルジャ監督作の系譜において極めて正統的な進化の系統樹をたどるようにも感じられる。

 ならばこの先にはいったい何が控えるのだろう。たとえば昨年公開された『チベット ケサル大王伝 最後の語り部たち』では、中国のチベット人自治区において昨今、千年の由来をもつ世界最長の英雄叙事詩「ケサル大王伝」の語り部を志す若者が増えている様が描かれた。スマホとインターネットを操る今どきの若者が、神憑きのごとき陶酔状態へ陥り長大な叙事詩の暗唱を滔々と始める様は圧巻だが、その熱狂に筆者は中国で急速に伸長する経済合理主義に洗われ極度の不安に襲われる彼らの、無自覚な叫びを同時に聴きとった。

『チベット ケサル大王伝 最後の語り部たち』 “Tibet Hero King Gesar”

 宗教儀礼は、戦争や災害といった社会変化や生老病死の個人変化を、日常言語や社会システムとは別の仕方で共同体の連帯へ組み込む機能を有するが、それは伝統文化へズームインする種のこうした映画が当該の社会に対しもつ働きにも近い。あるいは逆に、今後のソンタルジャ作品が《中国内チベット》の外部へと踏み出すこともあるのだろうか。そのように思い巡らせつつ、今後の撮影予定を尋ねてみる。すると返ってきた答えは想像を超えて質実なものだった。

 まず長編4作目となる次作は、ヨンジョンジャを主演とする漢民族の物語で、すでに撮影は終了し音楽を付している段階という。主人公の男は再婚を期するが、法的な離婚を済ませないまま前妻が出家し尼僧院へ篭もったため会うこともできず拘泥する話とのことだが、近代的法治制度と伝統宗教の狭間に個人を据えるこの構成は、ひとたび聞いてみればいかにも『巡礼の約束』の“次”にふさわしい手つきと思える。

 続く5作目は江南を舞台とする父と子の物語で、今年中に撮影開始が見込まれるという。これらから覗けるのは、現代世界を生きる《人間》への、国家や民族的アイデンティティという枠組みを超えた肉迫の試みだ。また《チベット》という安易な括りを拒絶するこの方向性は同時に、政府の強い統制下にある現代中国の映画市場を生き抜く戦略でもあるのだろう。

【映画評】 『ゲンボとタシの夢見るブータン』 〝秘境の地〟で失われゆく景色 Ministry 2018年8月・第38号

 

 ふたりからひと通りの話を聞き終え、撮影へと移るタイミングで筆者は2、3知るチベット語のフレーズを試しに使ってみた。それらは中国国境を越えたチベット文化圏の西端に相当するインド側のラダック・ザンスカール地域と、南端のネパール中部での滞在時に覚えたフレーズだが、チベット文化圏の北東端である四川省の各自治区を出身とするヨンジョンジャさんやソンタルジャ監督にも、意外なほど難なく通じた。チベット難民の監督テンジン・ソナムによる英印合作映画”The Sweet Requiem”(2018/日本未公開)は南デリーのチベット難民居住区を舞台とし、幼少時に同行者が次々と斃れる壮絶なヒマラヤ逃避行を経験した若い女性が主人公となる。これまで筆者が近しく触れたチベットとは専らこうした南アジアのそれだったが、今回インタビューの場でふたりに言葉が通じたその一瞬は、かつて自らの足や馬で越えた標高5000m超の峠の数々をも貫いて、すべての《チベット》イメージがひと連なりと化す瞬間だった。

“The Sweet Requiem”

 さて『巡礼の約束』の後半、ヨンジョンジャ扮する男と少年とロバからなる主人公一行がラサのポタラ宮を遠目に見る距離まで至りながら、町へすぐには入らない場面がある。なぜ行かないのかと問う少年へ男は「禊を済ませてから」と答えるのだが、まったく同じ場面がほぼ百年前明治期の日本人僧侶による巡礼記、河口慧海『西蔵探検記』(今日『チベット旅行記』として講談社学術文庫他より刊行)にも登場する。インタビューも終わりに近づき興に乗ったヨンジョンジャとソンタルジャ監督は、記事用の写真を撮ろうと英語で合図する筆者に対し「さあ、あなたが私たちを監督する番だ」と冗談交じりに笑いながら、チベット語による撮影の合図を要請してくる。各々の方言に表象される地域差や慧海の記述に看取した近現代の時代差をも貫いて横たわる、チベット仏教信仰と標準チベット語を共通項とした汎西蔵宇宙とでも言える時空の広がりに若干の眩暈を覚えつつ、残り時間にも追われチベット語の数詞を唱えながら必死にふたりの写真を撮る。事後、配給会社のマネージャー女史は「ふたりがそんなことを要求したのはあなただけ」とも笑いかけてくる。

 標高の高いチベット圏では、夜ともなればしばしば星空の呼吸が聞こえてくる。天の河の流れへとり込まれるようなその音圧に、一切即一の仏教的世界観の顕れを感覚する。険峻なヒマラヤの山裾に千年の時を越えなお色鮮やかに残る仏教壁画群がそうであるように、本物の表現はいつの時代も個の制約や限界を超えたところに宿り堕ちる。だからこそ時代や地域を越え作品は共有され、共感され、受け継がれる。ヨンジョンジャとソンタルジャ監督の朗らかな瞳に包まれるその時間は、チベットのあの星空へ連なるそれら表現性の滔々たる気脈に自身が呑み込まれる体験、そのものだった。

(ライター 藤本徹)

2月8日より岩波ホールほか全国順次ロードショー。

ソンタルジャ監督(左)と主演のヨンジョンジャさん

『巡礼の約束』 “阿拉姜色” “Ala Changso”
公式サイト:http://moviola.jp/junrei_yakusoku/
監督:ソンタルジャ
出演:ヨンジョンジャ、ニマソンソン、スィチョクジャほか

©GARUDA FILM

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