【映画】 地球最後の晩餐 『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』&『凱里ブルース』 ビー・ガン監督インタビュー 2020年2月28日

 中国映画第8世代を牽引する、1989年生まれの畢贛(ビー・ガン)監督による新作映画『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』が2月末、日本公開となる。前作『凱里ブルース』の4月公開も予定され、次代の中国映画を担う新鋭として世界から注目を浴びるこの監督に、その製作姿勢や中国映画の今をめぐり話を聞いた。

 畢贛監督作が現象させる夢幻彷徨。とりわけ、劇半ばで主人公と同時に3Dメガネをかける一見素朴な仕掛けがもたらす、『ロングデイズ・ジャーニー』後半60分ワンカットの没入体感は驚くべきものだ。技術的制約を様式的昇華へ転じる、まさに画期作と言うべき水準を本作は充たしている。彼の撮影手法の特徴は、数十分にわたるワンテイク長回しカットの中で、登場人物が異なる空間や時間軸をさまよう独自の映像感覚にある。

 その一方で、『凱里ブルース』にしろ『ロングデイズ・ジャーニー』にしろ、畢贛の出身地である凱里周辺から、登場人物らが地理的に離れることはない。それは自らが熟知する土地にカメラを向けつづける畢贛監督作の映像と、映像世界内では自由でありながら窮屈な現実を背負う登場人物とに独特の妙趣を与えてもいる。切れ目のないワンカットシーンの内側に制約されながら、主人公らは時空間の変容に翻弄され、また自らの意志で往還する。それは地政的条件と身体に拘束されながら、史上類を見ない急速な変貌を遂げる現下の中国社会の混沌を生き抜く、無数の匿名的個人たちの似姿にも映る。

“地球最后的夜晚” “Long Day’s Journey into Night”

――監督の出身地凱里で撮影され、登場人物の多くをプロの俳優でなく監督近縁の素人が演じる2015年の作品『凱里ブルース』では冒頭、金剛経(金剛般若経)からの引用文がテロップで映し出されます。それは釈迦が弟子の須菩提へ、心の流れと過去現在未来との関わりを説く一節です。監督は2013年にも『金剛経』という短篇作品を発表されていますが、時間の性質に関するその円環的な叙述には、西欧的直線的ではない時間性を感覚します。そこに今日大勢を占めるハリウッド文法への挑戦的姿勢をみる評価もありますが、監督ご自身はどうお考えになりますか?

 映画製作の手法に関しては、自身の表現したいものに見合うやり方を都度都度最優先に選びます。ご指摘の点についても、それはあくまで自分の時間感覚を直截に反映させた成果なのです。ですからハリウッドへの挑戦という感覚はとくにありませんでしたね。

――ご自身の時間感覚を反映させた帰結と仰ったことを、とても感慨深く感じます。というのも、この数年の内に台頭してきた中国の新世代監督たち、例えば監督より一つ歳上にあたる1988年生まれの胡波(フー・ボー)や顧曉剛(グー・シャオガン)らには、表現性において畢贛監督作と極めて親しいものを感じるからです。こうした同世代の監督たちに対し、なにか共通するものを感じることはありますか?

 実はまだ、胡波作品も顧曉剛作品も観たことがありません。ただそれ以外の同世代監督の作品は幾らか観ています。そして私自身が独自の経路をたどって行き着いた映画製作の手法や、それを経由した世界との関わり方に、彼らと共通するものを感じることはよくあります。そのこと自体が何かの表現であり得ることに、いま指摘をいただき初めて気づきました。

 とりわけ今度の作品『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』には、確かにそのような共通性が多分に含まれると思います。それが具体的に何なのか、またそれが偶然なのか否かは正直現段階では分かりかねますが。

――この点はもう少しお聞きしたいので、質問の仕方を少し変えてお尋ねします。上の世代の中国人監督たちに比べ、いま台頭しつつある80年代後半から90年代初頭生まれの監督たちがもつ新たな視点、相違点があるとすればどのようなものだと思いますか?

 それは大きくありますね。私たちの世代は、歴史からのプレッシャーを前の世代ほど強く受けていない結果、各々が撮る作品にアート的要素がより多く盛り込まれるということはある。社会的に注意深い全方位的な感覚よりも、個人の内面、孤独感や個人の感情に着眼するようになっています。この背景には、中国映画市場の改善も影響しているでしょう。中国国内における映画市場の経済的拡大は、私たちの製作環境・条件に大きな向上をもたらした。先輩たちに比べると、私たちの世代にはより自由な成長の余地が生まれていると感じます。

中国、その想像力の行方と現代 新作映画ジャ・ジャンクー『帰れない二人』、フー・ボー『象は静かに座っている』にみる表現の自由と未来 2019年11月27日

 

――胡波(フー・ボー)作品や顧曉剛作品などのように、中国国内での上映が限られ海外で先に注目されるケースはいまだに多くありますね。張芸謀(チャン・イーモウ)や婁燁(ロウ・イエ)など世界的な巨匠でさえ、当局の検閲に苦しむ状況がある。畢贛監督は、中国の検閲をめぐる現状についてどのようにお考えですか? ご自身の製作との関わりについてなどお聞かせください。

 中国の検閲に関しては歴史的な文脈もあり、ひと口に良くなったとも悪くなったとも言えない状況の複雑さがあります。ただどのように効果的、効率的にこの環境を改善していけるのかは、依然私たちの世代的課題と言って良いでしょう。

――過去に影響を受けた監督、特にリスペクトする監督などいれば教えてください。畢贛監督の作風から、タルコフスキーの影響は誰からも指摘されがちと推察しますが、個人的にはテオ・アンゲロプロスの語り口により親しいものを感じました。

 いまお名前を挙げられた、張芸謀や婁燁は昔からとても好きだし尊敬しています。またアンゲロプロスにもタルコフスキーにも影響はもちろん受けていると自覚しますが、彼らの映画は各々の時代性と強固に絡み合うものですよね。それに比べれば私の映画は幼児的というか、個人的感性への閉じこもる傾向があるようにも感じます。

――素人の役者をメインに使った『凱里ブルース』に対して、『ロングデイズ・ジャーニー』はプロの俳優を揃えた点でも大きく変わりました。主演の二人はもとより、際立って映ったのが一人二役を演じる香港のベテラン女優・張艾嘉(シルビア・チャン)の存在でした。彼女の採用には、単に脚本上の役柄に合った配役という以上の意味や敬意を感じたのですが、監督の意図をお聞かせください。

 彼女の演じた役柄は、メインのストーリー全体に対する母親のような存在と言えます。出演場面の限られる役ですが、この作品にとって極めて重要で核心的な役割を果たすものです。張艾嘉のような熟練の役者だからこそ演じ切れるものですし、実際彼女の出演により映画の水準自体が上がりましたね。

――全体に対する母親という表現は面白いですね。アメリカやフランスなど西側の映画は個人主義が際立ち、人間個人の主体性を前提とした構成になりがちなのに対し、その他の地域の映画は異なる箇所に力点が置かれやすい。畢贛監督作からアンゲロプロスが想起されたのも、あるいはそうした背景によるのかもしれないといま感じました。

 総体として言えば、映画撮影の機会は私たちにとっても依然稀少なものです。ですからその1回のチャンスに、表現したいものを包括的に注ぎ込むことになる。その結果として、おっしゃるような地域的な差異が生じるということはあるのかもしれません。中国社会は今日、非常に複雑で変化の早い環境下にあります。映画製作者にとって、なし得る様々な角度から関わる必要があるのです。

“路邊野餐” “Kaili Blues”

――賈樟柯(ジャ・ジャンクー)による2018年の新作『帰れない二人』では終盤に数分間、ロプノールの核実験場近くの廃墟で趙濤(チャオ・タオ)演じる主人公が飛翔するUFOの光に襲われる場面があります。それはリアリスティックな映像が持ち味の賈樟柯作品には、これまでまったくなかった種の演出です。畢贛監督に比べ世代的にはずっと上の監督ですが、その場面の浮遊感、SF的な世界観にくるまれた“現実”のテイストは『ロングデイズ・ジャーニー』にとても近しいものを感じます。長い履歴において強い一貫性を誇る賈樟柯でさえ、そうした変容を促される素地が現代中国にはあり、それが畢贛監督と通底するものをもたらしたとは言えるでしょうか。

 細かい場面ですが、よくご覧になっていますね。あのUFOの場面(*映画では光のみが主人公を襲い、UFO本体は登場しない)は、私にとっても感慨深いものでした。監督個々人による観る角度の違いは言うまでもなく大きいのですが、映画におけるSF表現の優位性を、私は「飛ぶことができる」ところに強く感じます。賈樟柯は『帰れない二人』でヤクザ心情に生きる主人公女性を飛ばしはしませんでしたが、代わりにUFOを暗示させた。映画は終わりますが、その終わりから登場人物が飛び立っていく、登場人物自体の力で歩き出そうとするのです。その演出に私は強く共感します。

――『凱里ブルース』発表時のインタビューで監督は、「撮影時のさまざまな制約から、満足できない部分も多く残った。次作の機会には改善していきたい」と語っています。『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』の製作を終えたいま振り返って、この点はいかがでしたか?

 かなりのことが実現できた、という実感はあります。もちろん制約は依然あり、したくてもできなかったことがなお多々残ってもいます。そうしたことは、今後の映画製作過程で逐一改善していきたいですね。

――ありがとうございました。


 インタビュー終盤の、賈樟柯『帰れない二人』(江湖儿女 / Ash Is Purest White)の「UFOの場面」をめぐる質問は、質問者である筆者自身が実はまったく想定していなかった。そも二時間超の作品『帰れない二人』の終盤わずか2分ほどのそのシーンについて言及する映画評は(少なくとも日本語圏では)ほぼ皆無で、とっさの思いつきから質問しつつ、質問自体が派手な空振りに終わるリスクも感じていた。このため畢贛監督から、この場面を覚えているばかりでなく「感慨深かった」という言葉が聞けたのは望外の喜びだった。

 賈樟柯によるこの場面が、タクラマカン砂漠の端ロプノールの核実験場付近を舞台とすることは、考えてみると意外に高度な象徴性を孕んでいる。本インタビューでも幾度か強調されたように、中国映画第八世代と名指される畢贛監督世代の映画は、先行世代に比べ社会との対峙よりも個人の内面に閉じ籠もる傾向をもつ。これに対し中国映画第六世代を代表する賈樟柯監督作に登場する人物は、いずれもたしかに現実社会のリアルと生涯を賭け全面対決しつづける。しかしそれは視点を大きく引き上げるなら、「現実社会のリアルに閉じ籠もる」態度とも言える。

 畢贛がこの場面に関連し、映画表現の「飛ぶことができる」側面へ言及していることは興味深い。砂漠の中へ消えた湖の歴史をもつロプノール核実験施設周辺は、軍の統制により一般市民は長らく立ち入りできず、アメリカン・サブカルチャーにおける《エリア51》同様に想像力の源となってきた。賈樟柯作品の一幕にはしたがって、ネバダ砂漠中の空軍基地にまつわるUFO目撃談同様の文脈を読み取れる。1960年代以降のヒッピーらが、西海岸を経て南洋や世界の辺境に桃源郷を見いだしたように、文化大革命以降の中国では創発性に優れた若者らが、国外を旅できない代わりにチベットを目指した。情報が閉ざされていた1970~80年代の中国におけるそうした文化現象については近年まであまり知られて来なかったが、その想像力の命脈は天安門後に世界的な注目を浴びる陳凱歌(チェン・カイコー)や田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)らを通じ、たしかに畢贛の世代へと受け継がれていた。

 個人の内面からも、窮屈な現実からも飛び立てる想像圏にこそ、藝術表現の画域は本来広がる。『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』は、冒頭にも述べたように前半が2Dで進行し、劇半ばで観客は3Dメガネをかけることを要請される。すると、映像はランタンの燈火に導かれ廃鉱の奥底へ潜りだす。後半60分ワンカットの場面はそうして始まり、立体化された視界は主人公とともに幾度か空を舞う。しかし映像が舞台の集落周辺を離れることは終始ない。この物理的制約と精神的自由との往還は畢贛映画の根幹を成しており、ゆえにこそ「個人の内へ閉じ籠もる」方向性は社会の底を突き抜け普遍へ到達する。この貫通性は、藝術が社会にたいしてもつ主機能だと言える。詩人でもある畢贛はまた、劇中へ自作詩を多く盛り込むことで視覚へ没入し切った観客をしばしば宙吊りにする。その内向的な語りは、彼の作品に独特の風合いを与えている。最後に『凱里ブルース』後半で主人公によりささやかれる畢贛の詩を引用し、本稿の締めとしよう。

 《すべての転換点は、鳥の群れの中に隠れている》

 

(ライター 藤本徹)

2月28日(金)、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿ピカデリー、池袋HUMAXシネマズほか全国順次公開。

『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』
“地球最后的夜晚”  “Long Day’s Journey into Night”
監督:ビー・ガン
出演:ホアン・ジエ、タン・ウェイ、シルヴィア・チャン、チェン・ヨンソン、リー・ホンチー
配給:リアリーライクフィルムズ+ドリームキッド
公式サイト:https://www.reallylikefilms.com/longdays

『凱里ブルース』
“路邊野餐”  “Kaili Blues”
公式サイト:https://www.reallylikefilms.com/kailiblues
4月18日(土)より渋谷シアター・イメージフォーラムほかにて全国順次公開予定。

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