中国、その想像力の行方と現代 新作映画ジャ・ジャンクー『帰れない二人』、フー・ボー『象は静かに座っている』にみる表現の自由と未来 2019年11月27日

 「もっと重い十字架を背負わせてみろ」

 紅衛兵たちが彼に背負わせているものは、たしかにかなりの重さがあったが、それは十字架ではなかった。ほかの批判対象がかぶっている三角帽はすべて竹製の骨組みでできていたのに対し、葉哲泰は太い鉄筋を溶接してつくったものをかぶらされていた。さらに、胸の前にかかっているプラカードも、ほかのもののような木板ではなく、実験室のオーブンからとりはずした鉄扉で、上部には黒字ででかでかと葉哲泰の名が書かれ、対角線上に赤で大きく✕印が描かれている。(劉慈欣『三体』)

 中国が揺れている。

 いまだ目に映りにくく、日本では報道の一面を飾ることも少ない異変には違いない。しかしこの「見えなさ」に対しては、サイバースペース上における防火長城(グレート・ファイアウォール)施策や、チベット・ウイグルなど問題を抱える辺境地域への厳しい外国人立ち入り制限など、中国当局による徹底した情報統制の成果を読み込まずに済ませることは難しい。

 本稿は、これら異変の兆候をまずは最新の芸術表象から読み解く試みであり、次に中国現代における表現の意味を再考する。具体的には、日本でも現在公開中の新作映画『帰れない二人』と『象は静かに座っている』を軸に、訳出された直近の中国文学等も交えつつ概観する。今日の世界、とりわけ日本社会が抱える歪さをめぐり、隣国・中国の現状を鏡像として初めて炙りだされてくる側面もあるだろう。目に見えるものは必ずしもいま見えているようではなく、兆しを探る試みの先で筆者が聴きとったのは意外にも、やがて到来する何者かの戦慄するほどに鮮明な足音であった。

 「香港の騒動は、いまのところ中国大陸での映画製作にとくに影響はありません。香港は一国二制度という特別な行政管理下にあり、大陸側にも自分たちとは違うという意識がある。したがって香港の問題によって、中国の映画人に何かしら問題がもたらされるということはありません。キリスト教・イスラームへの抑圧については、中国国内では得られる情報が限られよく理解していません」

 本紙インタビューの終わりで、直近の香港における騒乱や、近年報じられる伝統宗教への取り締まり強化について質問を投げると、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)は簡潔にそう答えた。これは思いのほか厳しいなと感じたのは、そう話すときの彼の声が自作を語るそれまでよりも一段低く、平板なトーンへ途端に転じたからだ。いまや賈樟柯ほど長期にわたり中国政府へ公然と異を唱えてきた映画人は他におらず、しかし彼の批判を当局が封じるのも容易ではないほどの影響力を培い、気骨ある映画製作者としての矜持を背負ってきた賈樟柯をしてこうなるのかと、その背後にあり得るものの息遣いが直観される一幕だった。

 この2019年、初春には中国内陸部でのキリスト教およびイスラームへの弾圧激化が報じられた。相次ぐ教会の十字架撤去や、100万人を超えるとされるウイグル人の強制収容施設(「再教育施設」)への収容をめぐる映像や写真はショッキングなものだった。また春先から香港で本格化した反送中デモはすでに初期の名目を遠く離れ、警察が市民への実弾発射が連発するに及び猖獗を極める事態へ突入した。こうした潮流の下、今年2月には文化大革命を扱う張芸謀(チャン・イーモウ)監督新作『一秒鐘』のベルリン国際映画祭出品が取り下げられ、中国国内において4月公開予定であった広州都心での汚職事件に材をとる婁燁(ロウ・イエ)新作『風中有朶雨做的雲』(邦題『シャドウプレイ』)が「不可抗力」により上映中止、6月には抗日戦争描く管虎監督新作『八佰』の上海国際映画祭オープニング上映が直前に取り消された。『八佰』の折にも賈樟柯は、海外メディアに対してのみならず中国版ツイッターである微博を通じて当局の対応を憂う発言を行い議論を呼んだが、かくいう賈当人の近作にも中国国内で上映できないものはいまだある。公に上映を禁じられた作品群を、隠れて地下上映することで映画人らは創発性の命脈を保ってきたが、文化大革命や抗日戦争などは従来当局が描写を促進さえしてきたテーマであったことは、直近で起きている異変の一端を垣間見させる。

 中国本土で2100万部を超える歴史的ベストセラーとなった劉慈欣のSF小説『三体』三部作では、ある15歳の紅衛兵少女の死と、その実父である物理学者・葉哲泰の処刑から物語が幕を開ける。冒頭に引用した数行だけをみても、その内では文革のみならずナチスやソ連のユダヤ人迫害(ホロコーストとポグロム)をイメージの下敷きとして、今日なお世界各地に現象する集団的迫害が風刺されていると読める。この風刺のあて先を「今日の中国で」とか「中国におけるキリスト教弾圧」と限定することも無理ではないが、たとえ海外メディアのインタビューであれ劉慈欣自身がそうと認めることはない。小説に限らず映画、演劇、美術、音楽などすべての表現分野において、それが中国現代芸術の今日的作法となっていることは敢えて指摘するまでもないだろう。

 今春には本紙でも1970年代の軍歌劇団「文工団」を描く秀作映画『芳華-Youth-』を扱ったが、文化大革命を批判的に描くことは、文革の終結直後の1980年代から映画にかぎらず文学や演劇など広範に潮流として存在した。抗日戦争はしばしばテレビドラマ化されるなどして、共産党政権による国威発揚や対日外交のダシとされ、また社会不安へのガス抜きに利用されてきた。したがって、たとえば直接描くことは到底不可能な天安門事件を、文革や抗日の装いを以てほのめかす。そうした作法こそ、現代中国の先鋭的な表現者にとって技量の見せどころであった。

【映画評】 『芳華-Youth-』 損なわれないもの、音色、傷痕 2019年4月21日

 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)は、中国映画の第六世代を代表する存在となって久しい。陳凱歌(チェン・カイコー)や張芸謀(チャン・イーモウ)ら先行する第五世代の監督らが改革開放の波にのり、ハリウッドへ渡るなどして華々しい変転を遂げたのに対し、つづく世代が天安門以降の検閲強化や市場経済移行後の急激な社会変化を受けて内向化、アングラ化の傾向を見せたことは興味深い。こうしたなか国際市場の投資先と目され、香港に蓄積された映画的資源をも貪欲に吸収し絢爛化の一途をたどる中国映画界にあって、古いフィルム素材や方法論的自律性に固執し地方都市の暗部や心の闇に焦点を当てつづける賈樟柯が当初異端視されながら、その一貫した制作姿勢の堅持により中国映画潮流全体の牽引者と目されるに至る変遷の全体が、現代中国文化の実様をよく物語る。寄る辺を失った不安から一層資本の魔力へとり憑かれる人々の掻きたてる波濤、これから身を守る手立てを誰も持たない状況下では、集団から乖離した個の自律性が放つ煌めきこそ逆説的に価値を高める。

 私にとって、態度の獲得は形式の獲得に比べより重要である。いかなる方法で映画を撮るかを理解しようとすることはいかなる態度で世界を見るかを理解しようとすることと永遠に分かつことができないのであり、それは我々に物語る状態を獲得させ、さらには映画全体のかたちを確立させる。(ジャ・ジャンクー 『「映画」「時代」「中国」を語る』)

 賈樟柯の新作『帰れない二人』は、ヤクザ者の流れゆく半生に焦点を当て、激動の現代中国を生き抜く市井の男女を捉える。日本で言えば昭和から抜け出たような人物らの若き日描く『帰れない二人』前半の回想部さえわずか十余年前の2000年代という中国社会の急速な変貌を、彼固有の撮影流儀が強靭に映し撮る。その様は安定の賈樟柯節とも言え、泥臭い人間模様の執拗なる反復と、沸騰と静寂の往還が趣深い。

 『帰れない二人』は、原題を『江湖儿女』とする。「江湖」は中国語に特有のニュアンスをもつ単語で、日本語で言い換えるなら「任侠」に近いある種の精神的価値を有し、具体的には裏社会を指している。「江湖は誰でも知っているが、説明は難しい概念。人がいるところがすなわち江湖、それが失われつつある」と賈は話す。賈樟柯の作品群において一貫してミューズの役割を果たしつづける趙濤(チャオ・タオ)扮する女主人公・チャオチャオは、しばしば「渡世」の語を口に出す。自分たちの言動が「渡世人」に相応しいか幾度も問う。しかし廖凡(リャオ・ファン)演じる男の主人公ビンが、その問いに言葉で応じることは稀だ。

 賈は語る。

 「長い時間軸によって見せる点で、本作は『プラットフォーム』や『山河ノスタルジア』へ連なる試みと言えます。今日の中国は情報過多です。誰もが目隠しで情報の海を手探りにより生きるなか、本当に大切なことは何か。時間軸を長く設定しマクロな視点から描くうえで、ラヴストーリーという枠組みは大きなポイントとなりました。社会状況の変化とは別のダイナミズムをもつ人間の情感変化が、恋愛物語の進行から浮かび上がる効果を狙ったのです。主人公ふたりの青春時代は、古い中国人が持っていた情感の世界を生きていました。しかし中年に至った彼らは時代の変化に適応した、新しい情感の表現をもっている。以前の中国ではほとんどの人が限られた区域を出ず生活を完結させていました。今は誰もが移動していく、流れていく。過去の情感の世界が捨て去られ、壊れていく。中年に至った男ビンにより傷つけられたにも関わらず不具となった彼をチャオチャオは介護します。その理由をチャオチャオ自身は渡世人の義理と解釈しているが、そこにはもちろん情があります」

 「時代の変化に適応した、新しい情感の表現」。賈は方法論を一貫させることで、スクリーンの表面上へ「時代の変化」を明瞭に炙りだす術を獲得し得た稀有な存在とも言える。

 また2006年の劇作品『長江哀歌』と、同年のドキュメンタリー作品『東』において三峡ダムに沈む街の人々にスポットを当て、2015年の前作『山河ノスタルジア』では隔離された母子の関係性を歳月に動じない山河との対照において描いた賈樟柯映画の系譜において、語としての「江湖」がもつ地理的ニュアンスも見逃せない。「街や自然といった人の暮らす環境そのものが、賈作品ではむしろ主役であるかのような印象もしばしば受けます」との筆者の言葉に対し、賈樟柯はこう応じた。

 「見極めたいのは現在の中国です。裏社会の人々の再登場もその一つ。私はかつて小津安二郎や溝口健二の映画を多く観てきました。彼らが日本の戦間期や高度経済成長期の人々を描いたように、私も変革のなかにある人間像を描きたい。それに合う作風を適時選びとりたいのです。裏社会を描く中国語映画としては、これまでジョニー・トーら香港映画が代表的でした。しかしそれらのようなアクションの舞台設定としてではなく、裏社会=江湖に生きる人々の日常のなかにドラマ性を見出す、つまりジャンルとしてのマフィア映画とは異なるものにしたいという思いがある。そこでは空間の処理がとても重要になってきます。空間そのものがドラマ性をもってくる。環境の叙述性がストーリーとは別の重要性をもってくる。観客もそれを観ているのではなく、そこへ入っていくよういざなわれる。そういう撮り方を心がけました」

 こうした空間に対する感覚は、賈樟柯の個性のみに由来するというよりも、小津映画に独特の無生物的なアングルにも通じる汎東洋性が基底にあると考えられる。それはこれまでカンヌやヴェネツィアなど主要国際映画祭に顕著な欧米主導のメインストリームにおいて、しばしば監督の天才性やオリエンタリズム言説へ回収されてきたものの、よく考えてみれば私たち東洋人には広く共通する、ごく自然な価値観の発露として了解できる。この点は、2年前に扱った『長江 愛の詩』を撮った80年代生まれの監督楊超にも質実に共有されている。

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 これに関連し長江をめぐって賈樟柯は、「母なる河である長江は、今日では流域に過密都市も多く抱え、古来多様な文物を育んできました。チベット高原から低地へと流れ込み海へと注ぐこの大河とともに生活する人々はとても多く、中国の伝統絵画にも頻繁に描かれてきた。人が多い、ということは物語がたくさんある、ということです」とも語った。

 ちなみに本旨からは逸れるが、『帰れない二人』には船上でキリスト教の祈りを唱える中年女性の置き引き犯が登場する。この場面について訊ねると賈監督は、「実は彼女はクリスチャンという設定ではないのです。“信仰のあるひとはいい人だ”という一般通念を利用する悪巧みです」と明かした。また彼自身の信仰については「時代もあり(文革後世代)、無神論で育ったという自己認識は強いです。とはいえ信仰のなかの現実世界で役に立つ考え方、善、節約、きちんとした人間として生きることなどを重要視している感覚は自分にもあります」と語ってくれた。

 『帰れない二人』終盤では、スマホのSNSアプリを通じた男女間の交感が醸す抒情や、私邸の監視カメラに映る孤立的な素振りのもたらす余韻が殊に味わい深い。そこには35mmフィルムからデジタルDLPへ、時代時代の変遷に応じて16mmやハンディカムを持ち換えてきた賈樟柯の、製作姿勢としての一貫性を支える身振りの軽やかさが顕著に表れている。

 映画を撮ることはプリミティヴな喜びであり、それは無から有が生まれるような創作過程を享受することなのです。わたしは、リュミエール兄弟が初めて自らが撮った動くイメージを見た時の、その刹那の快楽こそが、この雑技余技が真に我々に与える快楽なのだと思います。(賈樟柯の言葉:佐藤賢『中国ドキュメンタリー映画論』より)

 従来の作風をおおむね踏襲するものながら、実は『帰れない二人』には賈樟柯作品としては珍奇な場面も登場する。それは映画の終盤、新疆ウイグル自治区へ向かう列車のなかで主人公女性チャオチャオに、向かい席に座った男がタクラマカン砂漠のロプノール地方における核実験施設をめぐる噂を話しだすところから始まる。話は未確認飛行物体UFOの目撃談へと展開し、それまで「江湖」の気風と「渡世人」の仁義を体現してきたチャオチャオが、柄にもなく「私もUFOを見たことがある」と断言する。つづく場面で彼女は、荒れ地に残された実験施設のような廃墟建物の前に立ち、中空を突き進む不思議な光に襲われる。わずか1、2分の、ある種の神秘体験を描くようなこの場面を挟み、映画はまるでそれがなかったかのように男性主人公ビンとの腐れ縁のような「江湖」的日常描写へと戻る。
 賈樟柯は「映画の始まりは、雑技余技」としつつ、「(その遊戯感覚がもたらす)快楽の背後にある余計なもののためではなく、原初のシンプルな心に戻るべきでしょう」(前掲同)と説く。この点を忘れず実践しつづけていることは恐らく、一貫性と同時に後続世代をもときに凌ぐ斬新性を同時に具える賈の製作姿勢における、今この瞬間のモードに囚われずにあるための秘訣なのだろう。

 「慶和や」八おばさんは口の中の春雨をモグモグやりながら言った。「十字架はみんな絵より下じゃろ、ということはみんなイエス様より上ということじゃ」
 「一枚だけでも大ごとだが」王慶和は冷たく言った。「どの絵の下にも貼り付けるとは!」
 「このお偉方さんたちはいったい誰がいちばんなんじゃろう?」八おばさんは絵を見渡しながら元村長にきいた。「一つ貼り付けるとしたら、誰のところじゃろうか? ほかに貼らんかったら、焼き餅を焼くんじゃなかろうか?」
 元村長の妻はプッと吹き出した。
 (閻連科「信徒」『黒い豚の毛、白い豚の毛』所収)

 閻連科は、中国河南省の貧しい農村に生まれ、人民解放軍での長い軍歴をもつ作家である。家があまりに貧しく誕生日を祝う習慣もなかったという閻の筆致は、農村と軍隊のリアリズム文体に特徴づけられ、そのあまりに明け透けな描写から従軍27年目の2005年に人民解放軍を追放された。閻連科著『黒い豚の毛、白い豚の毛』は、今年2019年7月に邦訳が出たばかりの自選短篇集だ。山里の貧しい村人たちによる泥臭い交情や、人民軍の肩肘張った規律の内にどよめく欲望と夢の渦を、共感覚把握にあふれる情景描写を通じて濃密に展開させる。

 上記引用部は、キリスト教信仰に救いを見いだす文盲の老婆“八”への対応に元村長の王慶和が苦慮する短編「信徒」の一幕だ。八おばさんの部屋から十字架を撤去する代わりに、王慶和は毛沢東や鄧小平らの肖像画を貼りめぐらせる。しかし数日おいて王慶和が再訪すると、八おばさんは各肖像画の下部に十字架を復活させてしまう。直接は描かれないものの、王慶和は文革以前に実は知的修練を積んでおり、聖書に関しても相当の含蓄を有することが後半で仄めかされる。

 賈樟柯同様に、閻連科の作品もまた中国国内には流通しないものが多く、代表作の幾つかを含め随筆や講演録などもいまだ禁書扱いとされている。鄧小平以降の改革開放により、経済的豊かさを手に入れる人々が急増する一方で、精神的には満たされず信仰へ救いを求める流れが年々高まりをみせている。文盲の老婆の心へも染み入るほどに、言い換えるなら統治の論理では歯が立たないほどに強力な信仰の力を説得的に描いてしまう閻作品が、当局の目に脅威と映るとしても無理はない。この角度からみれば、中国政府による直近の伝統宗教への弾圧と各種表現への規制、香港での強圧行動は互いに分かちがたく結びつく。ちなみに閻自身は、客員教授の籍を置く香港科学技術大学から2017年文学栄誉博士号を授与されている。香港や台湾で出版された閻作品が大陸側でも地下で出回り、人々に読み継がれていることは言うまでもない。

 ――「わたしと炸裂が存在する限り、中国でこの本を出版しようなどとは思わないことだ」
 ――「中国以外」のいかなる場所であろうと、この本を出版したかったら、巴婁山脈に帰って来たいなどとは一生考えないことだ」
 ちょうど正午で、中天にかかる太陽の光が赤い格子窓のガラスを透かして注ぎ込んでいる。その明るい太陽の光の中で、市長の青紫色の顔を見つめながら、わたしは笑って彼に向かって言った。
 「ありがとう。孔市長。あなたはこの本の最初の読者だが、あなたの言葉でわたしはなかなか良い小説を書いたのだということがわかったよ」
 (閻連科『炸裂志』)

 さて、中国本土から日本への旅行ブームがすでに「爆買い」に留まらず、欧米からの観光客並みに多様化していることは周知の事実だろう。映画館へよく足を運ぶ者でも気づきにくい事実をここで書きつけておけば、それはつまり中国国内では観ることの難しい映画、たとえば賈樟柯の新作映画を観るために日本を訪れる人々もまた層として生まれていることを意味する。このことは、とくに出演俳優や監督などが来日登壇するイベント上映などに足を運ぶとよくわかる。通訳が入る前に壇上へ反応する観客の割合は、年々右肩上がりを続けている。次に扱う、胡波(フー・ボー)が20代で撮った映画『象は静かに座っている』もまたそのように受容されている作品の一つだ。

 2018年製作の映画『象は静かに座っている』は、炭鉱業の廃れた中国東北部の田舎町を舞台とする。炭鉱町にうごめく寄る辺なき魂たちの影。西洋資本主義の軛から遠く、究極の社会実験場と化した現代中国の灰空見あげる青年の諦念と、路傍の闇を見据える少女の覚悟。孤独に歩め、林の中の象のように。伝統様式の亡霊彷徨う狭間でそれは哭く。本作は、4時間という長尺を通して観ることで初めて得られる不思議な手ざわりにこそ価値のある、昨今の中国には稀な一篇だ。

 筆者はこの作品を、長尺の中国映画という以外の情報は何も持たずに観始め、冒頭の数分で一気に惹き込まれた。しかし中盤へ入る頃には画作りの端々から発せられる悲観的心情に打ちのめされるような重い鈍痛を覚え、この監督に強いシンパシーと敬意を感じながら、非常な危うさを同時に予感した。それゆえ鑑賞後に、監督の胡波が本作の完成後わずか29歳で自死を選んだと知り、やはりそうかと惜しみつつもどこかで腑に落ちた。自死の理由としては、確実性の高い情報として上映時間をめぐるプロデューサーとの確執が言われている。むろんそこに嘘はないとしてそれは胡波に自死へのトリガーを与えたに過ぎず、そのきっかけに先立つものとして、彼がある種の厭世観や鬱状態に強く支配されていたろうことを筆者は感覚する。

 『象は静かに座っている』を観始めて即座に直観されたのは、ハンガリーの映画監督ネメシュ・ラースローとの方法論的な親しさだった。本作への批評として一般には、胡波の師匠にあたるタル・ベーラとの関連がよく指摘されている。それ自体は素直に同意できるものながら、私見を言えば胡波はタル・ベーラよりもラースローにずっと近い。アウシュヴィッツ強制収容所のユダヤ人特殊部隊ゾンダーコマンドに所属する男の主観視点で全編を撮る『サウルの息子』、出生に謎もつ娘の主観視点で第一次大戦前夜の退廃の都ブダペストを彷徨う『サンセット』とネメシュ・ラースローの作品では、見通しの利かない世界を生き抜く絶望が情感としてではなく、圧倒的に窮屈な主人公の視界内部に画面を制約するという形式において表現される。

【映画評】 『サウルの息子』 極限状況を生き抜く信仰と祈り 2015年5月15日

【映画評】 『サンセット』 翳(かげ)りの鏡像、帝都の夢 Ministry 2019年2月・第40号

 ラースローもまたタル・ベーラの弟子筋にあたり、黙示録的な絶望の昏さをフレームの内に現出させる手つきという点で、寂れた炭鉱町を舞台とした胡波はむろん両者に通じるのだが、タル・ベーラの描く絶望はむしろ事大的であり荘厳だ。タル・ベーラのそれは、むしろタルコフスキーやアレクセイ・ゲルマンら旧ソ連圏の先行する巨匠たちへ連なる大作感を看取させ、索漠とした手ざわりながら胡波やラースローに顕著な出口なしの八方塞がりな狭隘さを感覚することはない。筆者はここに、賈樟柯と胡波の間にも横たわる断絶と、ベルリンの壁崩壊による東西冷戦終了以降の世界で育った世代に共有される鬱の自明性をみる。現代社会が不安の時代、神経症的社会といった言葉で表されるようになって久しいが、このことの意味はその字面以上に深刻だ。

 カフカのみならず、フーコーやバロウズによってもスケッチされた管理社会は「無期限の延期」に基づいて機能すると、ドゥルーズは観察している。生涯にわたるプロセスとしての教育……労働生活が続く限り終わらない訓練……家に持ち帰る仕事……自宅での勤務、はたまた勤務先が自宅。この「無期限」の権力の結果のひとつは、外的な監視〔surveilance〕が内的な警備〔policing〕によって継承されることだ。管理はあなたがそれに加担する場合にのみ機能し得る。バロウズにおける「管理マニア」の形象はここに由来する。つまり、一方で制御に依存しつつ、他方ではまた必然的に、管理にのっとられ、管理にとり憑かれているものである。(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』)

 資本主義世界という、自己増殖化し外部を喰い尽くす社会の混迷。1968年英国生まれの批評家マーク・フィッシャーの弁は、先行するどの鋭い社会分析や思想哲学的知見に比べても、この混迷それ自体との距離が圧倒的に近く密着する。密着というより混迷そのものと化した“私”を臆面もなく語る点が新鮮で、中途半端に対象化せずそのものを生きようとする苛烈な姿勢は、物見高い大御所の学者や論説委員などより遥かに信用に値する。フィッシャーは、資本主義に代わるオルタナティヴな様態を想像することすらできない今日の閉塞状況を、「資本主義リアリズム」と呼ぶ。かつてウルリヒ・ベックが『危険社会』で指摘したように、現代において個人化された人生とは、家族と職業労働、職業教育と労働、行政と交通制度、消費、医学、教育学等といった、各種の制度・システム間の矛盾を個々人において日々解決していく営みの果てしない連続となる。この連続以外にはない世界、すなわち資本主義リアリズムの下では、たとえばメンタルヘルスの問題さえもが個々人の責任へと帰せられる。生活環境や社会制度ではなく、個人の脳気質や選択の問題に還元され、すべては自己責任へと回収される。この新自由主義的倫理が鬱状況を加速させ、諦めからくる無力感とストレス負荷のデフレスパイラルを形成する。ここにフィッシャーは現代社会の機能不全をみる。

 フィッシャーの兄貴分にあたり盟友であった哲学者ニック・ランドは、こうして機能不全へ陥った社会を支える勢力・システムの総体を「大聖堂」(The Cathedral)と名指し批難する。この命名の前段には無論マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をはじめとする先行世代の達成があり、ランドはそのような仕方で、資本主義的フレームに完全適応し見かけ上は無神論化した起業家・科学者・政治家らの発想の根底にピューリタニズムないし福音主義的熱情を見いだして、自らの思考感性を歴史性へと架橋するとともにこれへ抵抗する。1990年代の英国に生じた、彼を理論的支柱とするこの抵抗運動は新反動主義、その中核となる思想は暗黒啓蒙とそれぞれ名指され、その後における加速主義や思弁的実在論、人類学の存在論転回などといった潮流との連動を遂げてゆくが、ランド自身は英国を離れ上海へと移住する。これを期に、《中華未来主義》(Sinofuturism/サイノフューチャリズム)と呼ばれる、シンガポールや現代中国のように経済合理性に駆動されながらも「大聖堂」へ絡め取られることのない強権的社会体制を上位へ置く思潮が目立ちはじめる。一方フィッシャーは2017年1月、唐突にみずからの命を絶った。

 『象は静かに座っている』の主な登場人物に、一人の老人男性がいる。彼の家に同居する息子夫婦は幼い娘の教育のため文教地区への引っ越しを計画するが、文教地区の家賃の高さから彼には老人ホームへ移ってくれと懇願する。彼は迷いつつもある日ひそかに老人ホームへ潜入するが、そこは介護とは名ばかりの質悪な収容施設もしくは古い閉鎖病棟のようで地獄の様相を呈している。映画の後半、ある事故により愛犬も失った彼は日がな路上をさまよいだすが、ふとした拍子から孫娘を息子夫婦の元から連れ去る。孫娘を連れた老人男性は、『象は静かに座っている』のメインストーリーにおける主人公の少年と少女に遭遇する。物語の終盤で少年は少女とともに、長距離バスでモンゴル国境域にある辺境地・満州里へ向かおうとしている。「満州里には檻のなかで座り続ける象がいる」という風聞に導かれたその逃避行へ少年から誘われた老人は、次のように語り出す。

 「お前はどこへでも行ける。しかしいずれ、どこでも同じなのだと気づく。今度こそ違うと自分を騙すようになる。お前はまだ期待している。一番いい方法は、ここにいて向こう側を見ることだ。そこがより良い場所だと思え。だが行くな。行かないから、ここで生きることを学ぶ」

 あたかも哲学を語る賢人のようであり、世の風潮へ抗うかのような素振りを見せてきたこの老人の口から、いかにも社会システムに統御され馴致されきった人間の論理が頭をもたげてくるこの場面は象徴的だ。

 その傍らでうつむく孫娘へ、少女は言葉をかける。「泣かないで」 孫娘は訊く。「どうして泣いちゃダメなの」 少女は答える。「理由はないわ」

 香港出身の若手思想家・許煜(ユク・ホイ)は、ランドやフィッシャーらに牽引されまた実業面においてはPayPal創業者ピーター・ティールやスペースX・テスラの共同設立者イーロン・マスクらにより主導される加速主義的、新反動主義的潮流の根底に、単線的な技術進歩を素朴に信ずる「普遍」主義の片鱗を喝破する。かつてキリスト教会を批判したヴォルテールらの啓蒙主義と同じ身振りで、彼らは政治的困憊に陥った現行の民主主義的諸制度を「大聖堂」と呼び批難するが、加速主義思想周辺の日本語圏への紹介者の一人河南瑠莉は、暗黒啓蒙が宿すこの本性をめぐりこう表現する。「そこに映し出されるのは、神殺しの後でなおも技術の中に一神教的な普遍性を延命させようとする、進歩主義者の姿そのものなのだ」と。(ユク・ホイ論考「啓蒙の終わりの後に、何が始まろうとするのか?」河南瑠莉訳者解題『現代思想 2019年6月号』所収) これに対し許煜が主著『中国における技術の問い』などを通し提唱するのは、いわば「複数の普遍」の可能性である。

【Ministry】 特集「となりの国のキリスト教★香港/中国編」 30号(2016年8月)

【映画評】 『最愛の子』 親子愛に見る現代中国の矛盾 ピーター・チャン監督最新作 2016年1月30日

 とはいえ、この場で許煜の思想へこれ以上立ち入る膂力が筆者には欠けている。そこで詳述は次回以降の課題として、ひとまず端的にまとめておけば許煜は、技術的思考の異なる様態を再構築することによってこそ、西洋的一神教的世界観から神を除き論理的単線性のみを爆進する、「メルトダウンのごとき黙示録的終末像」は新たな段階へ切り拓かれると説く。前世紀後半の日本語圏における京都学派や、中国語圏における新儒家の思潮がすでにその先鞭を着けたとする指摘は大変刺激的だ。敢えて前のめりに言えば、賈が小津や溝口にみたものは、スピルバーグやタランティーノがそこから学んだものとは根本的に異なることの、これは傍証ともなる着眼点と感じられる。

 2016年春、筆者は中国政府非公認・非合法の礼拝を続ける地下教会(家庭教会)を取材するべく深圳を訪ねた。十数年ぶりに歩いた深圳の街は、噂に聞いていた「中国の秋葉原」の形容で済むような規模を桁違いに凌駕していた。返還前の香港映画黄金期を支え、現在も中国/香港映画の第一線で活躍する監督・陳可辛(ピーター・チャン)は、4年前に行った本紙インタビュー(Web非掲載)のなかで彼自身の体験に基づく深圳という都市の宿す凶暴さについて語ってくれたが、筆者の深圳取材はその怖さを束の間体感するものとなった。 

 単なる観光旅行であれば、深圳のこのような側面に触れることは無論なかったろう。繁華街を派手派手しいネオンが彩り、居並ぶ超高層ビルにはLED装飾やプロジェクションマッピングが煌めくその麓で、案内してくれた牧師を含め出会う人々の多くは写真を警戒し、海外メディアであれ自身の名が出ることを極度に恐れた。この光と闇の混沌、『ブレードランナー』や『未来世紀ブラジル』がかつて描いたようなその終末SF的閉塞感を想うとき、それは胡波やフィッシャーがとった選択に心象の内で不思議と重なる。本来立ったまま眠りさえする象が「座っている」とはどういうことか。『象は静かに座っている』終幕部の夜闇に響く象の絶叫を、筆者はそのようにして聴いた。

 映画『象は静かに座っている』には、監督胡波による原作小説が存在する。(藤井省三訳にて新潮12月号掲載) 映画版とは異なり主人公が台北士林へ旅したり、隠喩でなく象と対峙したりと炭鉱町の閉塞感は薄い。アンニュイさで映画と共通し独特の疾走感さえあり、「我々より良い」というベテラン作家余華の評が世辞でないと素朴に納得される、魅力的な筆致で描かれている。しかしここで着目したいのは、終わりかたの変更である。直接は登場しない映画版における象がいる動物園は、先述した老人の言う「向こう側」にある「より良い場所」の象徴と化している。しかし主人公らは窒息しそうになりながら最後の最後にどうにか町を脱出し、そこを目指し走りだすのだ。  

 こうみてきた時、胡波の撮った炭鉱町の出口なしの閉塞感は、それ自体が中国現代のメタファーだとあらためて気づかされる。そして老人男性が直面する強制収容所のような老人ホームの実態が何を意味するのかも。『象は静かに座っている』にはそのようにして、いつどのように起こるかわからない暴発への、幽かな兆しが全編にわたり孕まれている。

 今夏、筆者は香港の若手映画監督取材のため、デモ隊と警察が衝突し催涙弾の薬莢散らばる香港市街を練り歩いた。その詳細は筆者寄稿の『STUDIO VOICE Vol.415』(2019年9月発売号)を参照願うとして、このとき知り合ったいずれもデモ隊支持を堅持する20代30代の監督らが連日SNSへ投稿するものの内に、香港警察の市民に対する態度豹変と至近でとられる施策について、ウイグルやチベットにおける先例に結びつける人権系NGOの分析が最近目に留まった。11月下旬現在、先鋭化する衝突に天安門の再来さえ危惧する声もにわかに目立ち始めている。

The New York Times”‘Absolutely No Mercy’: Leaked Files Expose How China Organized Mass Detentions of Muslims”

 そうした直近の情勢も目が離せないのだが、と同時に筆者が気になるのは中国内部の実情のほうだ。たとえば米紙ニューヨーク・タイムズはこの11月半ば、新疆ウイグル自治区におけるウイグル人弾圧政策をめぐる400ページ超の内部文書大量リークが中国政府関係者によって為されたことを報じている。その中には、収容施設に拘束されていたウイグル人計7000人以上を独断で釈放した中国人責任者に関する情報なども含まれるという。「100万人を超えるムスリムの再教育施設への拘束」は以前から再三報じられてきたが、このようなリークは事態の変容を窺わせる。

 獄中でのノーベル賞受賞ののち、2017年に事実上の獄死へと追い込まれた劉暁波はかつて詠った。「彼らにはワンピースからあふれ出る血が見えない。悲鳴の叫びも聞こえない。鉄かぶとの硬さにも、いのちのやわらかさにも、まったく気づかない。彼らは知らないだろう。一人の愚かな老人が、古い歴史をもつ北京城を、もう一つのアウシュヴィッツにしたことを」

 一説には200万人を監視に動員するともされる防火長城(グレート・ファイアウォール)体制において、「天安門」を始め多くの単語ないし事象が中国語圏ではあらかじめ存在しないことになっており、直近でもたとえば習近平を「くまのプーさん」に見立てるギャグの流行から「くまのプーさん」そのものがネット規制の対象になるなど、その過剰さは健在だ。その反面、今日の中国における観光商用含む出国者数はすでに年間1億人を超え、毎年数千万人単位で増加し続けているという。こうした状況下、特定の単語/事象/映像作品を国内においてのみ排除する政策の効力はおのずと低下しつづける。

 香港の騒擾をめぐり、どうせ一国二制度期限の28年後にはすべてが終わるのにという懐疑的な声も聞くが、そうではないのだ。中国社会の側にも、急速な社会の資本主義化にともなういわば“香港化”を阻めない諸相がたしかにあり、だからこそ外国人の目にはともすれば熾烈なまでの統制がなお行われる。とすれば今日現在、いまこの瞬間も香港の各大学で立て籠もり抵抗し続ける学生たちの営みに意味はある。大いにあると言わざるを得ない。すでにこの世界を去ってしまった『象は静かに座っている』監督胡波は、死後の今になって中国映画監督「第8世代」の代表的な一人と目され始めている。賈樟柯を第6世代に数えるその系譜がここに来て新世代を名指しだしたのは、胡波と同じ80年代後半以降に生まれた監督たちがこの1,2年鮮やかに台頭してきたからだ。例えば1988年生まれの顧曉剛(グー・シャオガン)は長編第一作『春江水暖』がカンヌ映画祭批評家週間クロージングを飾り、第20回東京フィルメックス・コンペティション部門へも出品されるなどにわかに注目を集めている。また来春日本での2作連続公開が予定される1989年生まれの畢贛(ビー・ガン)は、すでに複数の国際映画祭参加を経て中国映画新世代の旗手としての存在感を高めている。ちなみに本紙でも今後監督取材を行う見込みだ。

 1991年香港生まれの映画監督・李駿碩(ジュン・リー)への今夏のインタビューは、香港島の繁華街真っ只中にある、香港警察が長年監獄として使用した建物を近年改装したカフェで行った。そのカフェのすぐ裏手では、その日も法曹関係者によるデモが計画告知されていた。社会に不満があるからデモを行うのは良いとして、その先にどのような将来像を描けるのか見えず筆者は直截に彼へ尋ねた。「香港はどうなれば良いと考えるか。あなたに理想の未来像はあるのか」と。李駿碩の答えは明解だった。

 「完璧な制度は存在しない。米英や福祉に厚い北欧でさえ、その実は他者排斥の上にしか成り立たない。したがって自由、民主、人の愛を体験するためにベストなのはただ求めつづけ、闘いつづけることだ。ずっと闘いつづけてあることが理想の状態だ」(筆者寄稿「月歩の果て、銀幕の映しゆくもの」『STUDIO VOICE vol.415』所収)

 2017年1月、マーク・フィッシャーは自死を選んだ。英国の自宅には、書きかけだった単行本の序文が残されていたという。そのタイトルは、『アシッド・コミュニズム――ポスト資本主義者の欲望について』(木澤佐登志「気をつけろ、外は砂漠が広がっているマーク・フィッシャー私論」『現代思想 2019年6月号』所収より)。

 新しい形のコミュニズム。強酸性の共産制。ここではないもうひとつの現実という荒野に待っているもの。

 かつて帝都ロンドンの街路をうろつき、文明の驚異を街路がその全体で体現する様を、またそこを歩む人々がみな自らの人間性の最良の部分を犠牲にし、私的関心にとらわれ無感情に孤立してゆく様を、フリードリヒ・エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の現状』に描きだした。当時20代半ばであった彼その数年後、盟友カール・マルクスと共に『共産党宣言』を世に問うことになる。それから半世紀あまりのち、ドイツの片田舎からやってきたエンゲルスが目にしたのとは別様の奇妙さに、極東の島国から英国を訪れた青年・夏目漱石もまた当てられ、重度のメランコリーに襲われて一時期周囲との交流を断つ。

 現代が、不安の時代と言われてすでに久しいとはすでに述べた。漱石の文学がいまだ現在性を保つのは、彼が誰にも先駆けその不安を一身に引き受けた、唯一無二の表現者であったからだ。今日より百年と少し前、ロンドンの群衆が奏でる雑踏に埋もれて背の低い東洋人がたった一人、その先にありうるものを感取して立ち尽くし、じっと耐え続けていたのである。その先に漱石が聴きとっていたのは間違いなく、馴致されて従順に群衆を成す今日の我々が踏み鳴らす遠い足音であったろう。

 21世紀に至ってはそうして人々の奏でる雑踏を、無数のカメラが監視している。寡黙な指揮者が壇上から睥睨するように、新たに生成されつつあるビッグデータの往還に支えられた社会システムは、群衆の織りなす調べを軽やかに統御する。しかしそこでコントロールされているものは、すでにこの“わたし”からは隔離された何かである。隔てられてはいるが、かけがえのない何かである。その何かを、この身に取り戻す可能性を心に描く。

 その試みは、祈りにも近い。

 寒さは水のように全身に漲り、ぼくはついに立ち止まる。根を見つけたのだ。未だ経験したことのない柔和な心情が体内に広がり、滔々たる潮流と混ざり合い、心を揺り動かし、狂気を湧きあがらせる。ぼくはこらえきれずに倒れる。凍りついた地面なので空中に浮かんでいるようだ。僕の体中を暗夜が穿ち、眼の中に一筋の完璧に美しい曲線を描く。ぼくは暗夜の一点で、生命の充実と無限の意義を自覚する。(劉暁波 「独り大海原に向かって」)

【後記】

 日本では昨今、「表現の自由」をめぐる話題が世上を賑わせている。2019年夏のあいちトリエンナーレにおいては、名古屋市長や愛知県知事を巻き込んだ企画展《表現の不自由展》の公開中止騒ぎが起き、文化庁の助成金交付撤回という余波を生んだ。つづいてこの2019年秋には、KAWASAKIしんゆり映画祭における慰安婦問題を描く映画『主戦場』の上映中止、文部科学省所管の日本芸術文化振興会による映画『宮本から君へ』への内定済み助成金の不交付決定と、論争を呼ぶ事態が次々に巻き起こった。従来からある暴力表現や性表現への規制をめぐる議論よりも一段温度を上げるこれらの事態からは、日本社会の変質の一端が様々に伺える。しかしいざ視点を引き上げ見渡すなら、こうした国内文脈の枠組みで語られるそれよりも、“表現の自由”をめぐる今日的課題はもっと多様であり遥かに熾烈であることがみえてくる。隣国・中国の現状を観察し日本語で思考することの効用はまずそこにある。

 記事作成にあたっては、日頃から映画配給・宣伝や出版に携わる多くの方々に協力をいただいています。本稿執筆にあたっては、とりわけ映画配給会社ビターズ・エンドの担当者お二人に感謝の意を表するとともに、記事掲載が大変遅れたことをお詫びします。一身上の都合に諸般のタイミングが重なり、通常枠内での記事更新ペースから逸脱し、数年に一度の総括という方向性での執筆となりました。(ライター 藤本徹、撮影 鈴木ヨシアキ)

『象は静かに座っている』
監督・脚本・編集:フー・ボー 
出演:チャン・ユー、ポン・ユーチャン、ワン・ユーウェン、リー・ツォンシー 
撮影:ファン・チャオ 録音:バイ・ルイチョウ 音楽:ホァ・ルン 
美術:シェ・リージャ サウンドデザイン:ロウ・クン  
2018年/中国/原題:大象席地而坐/英題:An Elephant Sitting Still/カラー/234分 

配給:ビターズ・エンド bitters.co.jp/elephant
Twitter:@HUBOandELEPHANT
Facebook: https://www.facebook.com/HUBOandELEPHANT

【参考文献一覧】 本稿を書くにあたり下記書籍・資料を参照しました。本文内引用部もすべて下記書籍より。

・劉慈欣 『三体』 立原透耶監修 大森望 光吉さくら ワンチャイ訳 早川書房
・ジャ・ジャンクー 『ジャ・ジャンクー「映画」「時代」「中国」を語る』 丸川哲史 佐藤賢訳 以文社
・賈樟柯 『賈想Ⅱ 2008-2016 賈樟柯電影手記』 万佳歓編 台海出版社
・閻連科 『黒い豚の毛、白い豚の毛: 自選短篇集』 谷川毅訳 河出書房新社
・閻連科 『炸裂志』 泉京鹿訳 河出書房新社
・佐藤賢 『中国ドキュメンタリー映画論』 平凡社
・マーク・フィッシャー 『資本主義リアリズム』 セバスチャン・ブロイ 河南瑠莉訳 堀之内出版
・マーク・フィッシャー 『わが人生の幽霊たち うつ病、憑在論、失われた未来』 五井健太郎訳 Pヴァイン
・木澤佐登志 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』 星海社新書
・ウルリヒ・ベック 『危険社会: 新しい近代への道』 東廉 伊藤美登里訳 法政大学出版局
・マックス・ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 大塚久雄訳 岩波文庫
・『現代思想 2019年6月号 *加速主義――資本主義の疾走、未来への〈脱出〉』 青土社
・『新潮 2019年12月号』 新潮社 (胡波「象は静かに座っている」 藤井省三訳)
・『ゲンロン7』『ゲンロン8』『ゲンロン9』 ゲンロン (許煜連載「中国における技術への問い」序論1-3 仲山ひふみ訳)
・『ゲンロン10』 ゲンロン (ユク・ホイ論考「芸術と宇宙技芸 第1回 ポストヨーロッパ哲学のために」 仲山ひふみ訳)
・The New York Times“‘Absolutely No Mercy’: Leaked Files Expose How China Organized Mass Detentions of Muslims” 
・『STUDIO VOICE vol.415 特集 We all have Art. 次代のアジアへ——明滅する芸術(アーツ)』 INFASパブリケーションズ
・ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論 (第5巻)』 岩波現代文庫
・劉暁波 『独り大海原に向かって』 劉燕子+田島安江編訳 書肆侃侃房

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