【映画評】 心の真実と優しい嘘 『フェアウェル』 2020年9月27日

 ニューヨークで淡々と暮らす華僑2世の若い女性ビリーが、祖母ナイナイの余命わずかと聞かされ長春へ向かうと、癌告知をしない風習ほか文化衝突の嵐が待っていた。映画『フェアウェル』は、米国の日常においても家と外で別の文化を生きる一人の女性が、中国本土で味わう困惑と逡巡を通して、移民2世の心情を鮮やかに映し出す快作だ。

 文化圏を隔てた移住がもたらす心の傷を描く場面の数々は創意に満ち、笑いあり涙ありの展開は、たとえ観客に海外移住の経験がなくとも深く訴えかけてくる。ビリーにとって中国での日々はカルチャーショックの連続で、もっぱら奇異なものとして体験される。とりわけ患者本人へ癌告知をしない慣習に至っては、アメリカ育ちのビリーの目に初め不条理で不当な《嘘》としか映らず、この《嘘》をめぐる葛藤が全編の基調を成していく。しかし日本人の観客の多くにとってこの《嘘》は不条理でも不当でもなく、逆に親しみのあるものだ。それは言うまでもなく、つい十数年前までは日本でも本人への癌告知を避けるのがむしろ自然で、インフォームド・コンセントの概念さえまだ普及していなかったからだ。

 この《嘘》をめぐっては、大病院での検査結果報告の場面で登場する若手医師の言動が興味深い。若い男性医師は米国留学の経験があり、いわばビリーがその最中にあるカルチャーショックを乗り越えた、物語上の先行者として登場する。祖母ナイナイの周りに集う一族に同調し、医師は中国流に癌告知の回避をごく自然な素振りでやってのける。しかしその場唯一の英語話者であるビリーに対してだけは、これもまたごく自然に「告知しないという《良い嘘》(Good Lie)」の意義を英語で話す。その卒然とした態度にビリーは気圧され、つかのま返す言葉を失う。二重化された言語環境があたかも二重化した人格の併存を表すようなこの医師の身振りはしかし、文化混淆局面が日常化した今日世界のどこであれむしろ一般化しつつある。

 主人公ビリーは、彼女なりのしかたでこの葛藤を乗り越えてゆくのだが、ここで強調しておきたいのは本作テーマの核心が、必ずしも中国とアメリカという文化摩擦に出来事の因子を求めてはいない、という点だ。たとえばインフォームド・コンセントの理念に照らせば、当人へ告知しない《嘘》は否定的にしか映らない。しかしその実アメリカにおいても、インフォームド・コンセントの前提となる「情報の開示と理解の医療における重要性」を医学界が示したのは、1973年発表の米国病院協会「患者の権利章典」が初出で、そこへ至るには1960年代の公民権運動を通じた自己決定権など人権をめぐる格闘があった(美馬達哉『生を治める術としての近代医療』)。日本の医療現場におけるインフォームド・コンセントの受容もまたはこうした思潮の変化を四半世紀遅れで受容したものだが、そこでは素朴な「異文化対立」の語には到底収まり切らない主体をめぐる個人/社会間でのヘゲモニー闘争がなされており、この闘争は医学のみならず社会全体へ政治・宗教を巻き込み一層多様化・混迷化しているといえる。

 さて当初わずか4館で封切られた本作は、3週目には全米TOP10入りを果たす大ヒット作となった。その理由として、セリフよりも表情と佇まいで表現し切った主演オークワフィナの存在は見逃せない。元来ラップ歌手として知られる彼女の近年における映画出演歴は目覚ましく、特に『オーシャンズ8』を始めとする、ジェンダーやマイノリティへの配慮重視が叫ばれながら実態が追いつかないハリウッドの状況に一石を投じた作品群への出演は注目に値する。

 なかでも彼女が重要な役回りを担った2018年作『クレイジー・リッチ!』は、製作・出演陣のすべてがアジア系で構成され世界的成功を収めた作品として記憶に新しい。カリスマと言ってしまえば簡単だが、彼女には意図的に修得可能な技術だけではどうにもならない、ただそこに在るだけで輝きを発するような名優の必須条件が確かに具わる。翌2019年にゴールデングローブ賞主演女優賞を獲得した『フェアウェル』は、この意味で役者オークワフィナの名声のみならず、その3カ月後に米国以外の作品としては初めてオスカー4冠を達成した韓国映画『パラサイト』へと至る、ハリウッドの業界潮流を確定づけるメルクマール作品となった。

 この潮流は、ハリウッドの敏腕プロデューサーであったハーヴェイ・ワインスタインによるセクシャル・ハラスメントの告発が発火点となり、「#MeToo 運動」と呼ばれ日本でも社会事象化した流れと完全に同期する。加えて映画のネット配信サービス普及により、映画業界全体が大きな構造転換を迫られるなか『フェアウェル』がこの点でも注目されるのは、「本作の体験を劇場で共有したかった」と語る本作監督ルル・ワンの意向により、ネット配信大手のNetflix社やAmazon社からの巨額のオファーをよそに、新興企業A24が配給権を勝ち獲ったことだった。

 A24は2012年設立の非常に新しい会社ながら、その極めてエッジの利いた作品群により今や映画製作集団として世界最高峰の評価を手にしている。直近の本紙記事での言及作としては、『mid90s ミッドナインティーズ』(2020年9月2日)、『スイス・アーミー・マン』(同8月28日)がA24製作ないし配給作品である。

 なお、無類の映画通でもあるオバマ前米大統領が発表する毎年の映画ベストは質の高さで知られ、本紙記事で扱ったビン・リュー監督作『行き止まりの世界に生まれて』(同9月2日)やジャ・ジャンクー監督作『帰れない二人』(2019年11月27日)などが含まれるが、2019年発表リストには無論『フェアウェル』が挙がっていた。オバマは政界引退後ミシェル夫人とともに独立系の映画製作会社を立ち上げたが、A24と並び直近の業界動向に早くも大きな影響力を見せ始めている。来年以降も続くであろうコロナ禍の影響を脱したとき、こうした新興勢力がどれほど表現の画域を拡張し、新たな光景を生み出すのか今後が楽しみだ。そこではもはや、〝自分たち〟の内へ入り込む〝他者〟を《奇妙なもの》として描き笑う作法は、かつてのハリウッド映画がそうであったようには通用しなくなっているだろう。

 また本作の物語は、自身が華僑2世であるルル・ワン監督の実体験に概ね基づくという。脚本は精緻に練り上げられており、殊にビリーの従兄が日本人の花嫁を迎えて催される結婚式を後半の主舞台に据えた構成は、本作を台湾ニューシネマの名作『ウェディング・バンケット』(アン・リー監督、1993年)への世紀を隔てた応答作とした。長春のホテルの一室でふと気づけば、窓際でニューヨークで見たのと同じ小鳥が羽を休めている。本来いるはずのないものがそこに佇む。それはしばしのあいだ無心に小鳥を見つめるビリー自身の投影にも映る。

 祖母ナイナイは、中国の風習に無知な日本人花嫁を毛嫌いする一方、溺愛する孫娘ビリーがその日本人花嫁と同程度に、いやもしかしたら花嫁以上に中国文化へ距離を感じているとは思いもよらない。《嘘》がもたらす人間模様の波紋を仔細に捉え、このように関係性の機微を丹念に描き込む『フェアウェル』を通し、移民2世の心情に初めて触れる実感を抱く観客は多いだろう。米国BLM運動、香港ウイグル、ベラルーシ。コロナ禍以降、内向きで狭隘な気風が一層強まる今日であればこそ、物語表現が開くこうした共感への道筋は希望そのものとなる。(ライター 藤本徹)

『フェアウェル』 ”The Farewell” “别告诉她”
公式サイト:http://farewell-movie.com/
10月2日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー。

引用/参考文献:美馬達哉『生を治める術としての近代医療――フーコー『監獄の誕生』を読み直す』(現代書館、2015年)

本稿言及の過去記事: 

【映画評】 疾走する魂と割れる社会 『行き止まりの世界に生まれて』『mid90s ミッドナインティーズ』『ガザ・サーフ・クラブ』 2020年9月2日

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中国、その想像力の行方と現代 新作映画ジャ・ジャンクー『帰れない二人』、フー・ボー『象は静かに座っている』にみる表現の自由と未来 2019年11月27日

本稿筆者による『フェアウェル』関連の連続ツイート:

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