NBUSに名指しされた藤本満氏がコメント 「宣言」をそのまま持ち込むことを危惧 2022年8月22日

 「ファミリー・フォーラム・ジャパン」のテモテ・コール氏、「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」の中川健一氏、「真理のみことば伝道協会」のウィリアム・ウッド氏らを呼びかけ人とし、ジェンダーとセクシュアリティに関する聖書の教えをまとめた「ナッシュビル宣言」を掲げる「性の聖書的理解ネットワーク(NBUS=Network for Biblical Understanding of Sexuality)」に対し、「福音的な教会」に「LGBT・同性愛は罪ではない」というメッセージを流布する契機となったと名指しで批判された藤本満氏(インマヌエル高津キリスト教会牧師)が8月22日、本紙にコメントを寄せた。

 NBUSが7月14日に公表したリリースでは、「昨年5月に開催された福音主義神学会東部部会で、藤本満氏がLGBTと同性婚について講演され、聖書を冷静に検討した上で『LGBT肯定を評価』と発言されました」「藤本氏はその後、『LGBT否定は福音的人間観と逆行する』とも語っておられます。……その認識が日本の福音的な教会の間に広がってきているのではないでしょうか」と記されていた。

 これを受けて藤本氏は、「(NBUSに『賛同者』として)署名される方々が心優しい牧者であり、真実な伝道者であったとしても」「事実、署名者の中には私の尊敬する友人や先輩もおられます」と前置きした上で、アメリカの歴史的背景をもとに生まれた同宣言をそのまま日本に持ち込むことは、「苦悩と不安、孤独と生き苦しさを理解してほしいと密かに、そして強く願っているマイノリティーの方々を『神の戒め』という檻に封じ込めることになるのではないか」との危惧を表明。

 論拠とされる聖書の記述を例に、パウロが批判している対象はLGBTではなく、「性的欲望を満たすためなら、あらゆる可能性を探るような性的マジョリティーに属する者」「性的マジョリティーの人々による自己中心で欲と快楽に溺れている生活」だと指摘。「聖書解釈において、原著者が原読者に何を語っているのか、また文脈はどのようになっているのかをまず考慮するのが原則」と改めて強調した。

 「ナッシュビル宣言」は2017年、米福音派の指導者たちが連名で発表したもの。NBUSは8月12日、本紙の紹介記事をめぐって「あたかも、NBUSが宗教右派であり、元統一教会と同じ主張をしているかのような錯覚や誤解を与えてしまう記事配列をされています。NBUSを宗教右派という言葉でレッテル貼りをされるような印象操作ではないか」と抗議。これを受けて本紙は、公の場でLGBT当事者、研究者、 牧師を交えた「意見交換」を提案したが、NBUS呼びかけ人一同は「誠実な報道の常識と客観性を損失しているメディアとは対話は不可能」との理由で退けた。

 藤本氏によるコメントの全文は以下の通り。


 ある調査によると、アメリカでは55%の人々がLGBTの人々は身近にいると認識しているのに対して、日本ではその数字はわずか5%だそうです。しかし実数はそんなに少なくないのです。2016年の博報堂のLGBT総合研究所は、20~59歳の男女を対象としたアンケートで、8%、つまり12人に1人が自分のLGBT性を告白していることを明らかにしました。教育の現場では、自分の性に不安を感じている人の率はさらに高くなります。日本にはLGBTはごくごく少数であったのが、近年増加傾向にあるということなのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。匿名のアンケートなら声は出せる、しかし皆の前でカミングアウトはできない。学校ではいじめの対象になる、社会では解雇の可能性もある、以前からそうでした。そういう中で文科省や法務省はしきりに人権に基づいて、個性・多様性を尊重する社会を作り出そうとしています。

1.「ナッシュビル宣言」を持ち込むことへの危惧

 ナッシュビル宣言は、伝統的な家族観を守るためのものですが、それはアメリカ史の中でゲイ運動の闘争と弾圧の長い歴史の末に生まれたものです。ジェローム・ポーレンの『LGBTヒストリーブック』(北丸雄二訳、サウザンブックス社)は、多くの人物史と歴史的出来事を通して、百年の歴史を振り返っています。この本は、2013年に連邦最高裁が同性婚を「結婚の平等」としてLGBTにも結婚の権利を認める判決を出し、それが2015年までに各州に波及していく様子を描いて閉じられています。教会の対応はこの判決以前も以後もさまざまです。米国長老派教団は結婚の平等を受け入れました。合同メソジスト教会では、伝統的な立場に立つ人々は去って新たな教団を結成しました。

 ナッシュビル宣言は、2017年に南部バプテスト連盟の「聖書的男性女性評議会」が作成した伝統的な男女観・結婚観に立ち、LGBTを退けるように、「私たちは……主張する。……否定する」と竹を割ったように自分たちの立場をまとめた宣言です。そこに伝統的な結婚観を持つ諸教団の牧師・神学者らが署名しました。かたや、同性婚に賛成した長老派教団は30年を超える論議、つまりこの問題を巡るいくつもの立場を分類し、その主張の根底にある聖書観までも明らかにして大会に提出しました。

 私は、竹を割ったような宣言も詳細な神学的・聖書解釈の文書も、それぞれに意味があると思います。そのように言えるのは、アメリカでは長い闘争の歴史を経て、LGBTの存在が明確になり、その声を堂々と打ち出す教育も文化も裁判も積み重ねてきたからです。

 しかし、日本はそうではありません。「普通」の性を生きろという圧力を社会から受け、傷つき孤独に生きてきたマイノリティーは、マジョリティーの圧力によって押さえつけられています。そして教会ははるかに後ろにいます。そこに「宣言」に署名するという城壁を構えてしまうと、内なるマイノリティーは声を上げることはできず、外なるマイノリティーは教会の扉をたたくことはないでしょう。苦悩と不安、孤独と生き苦しさを理解してほしいと密かに、そして強く願っているマイノリティーの方々を「神の戒め」という檻に封じ込めることになるのではないかと危惧します。それは、署名される方々が心優しい牧者であり、真実な伝道者であったとしても、です。事実、署名者の中には私の尊敬する友人や先輩もおられます。

2.神の言葉に立ち返ろう

 「神の言葉に立ち返る」はNBUSの主張の根幹です。私も聖書を神の言葉と信じる牧師ですから、このことには大賛成です。しかし立ち返るとは、その聖書箇所を抜き出して現代にいきなりあてはめるのではなく、神の言葉が意味することを探求する必要を感じます。ここでは、LGBTによる性愛行為を聖書は禁じていると言われるわずかな聖句の中から、有名なものを一つ挙げてみます。本当にそうなのでしょうか?

 コリントの信徒への手紙第一6:9~10「 それとも、正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけません。淫らな者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男娼となる者、男色をする者、 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、人を罵る者、奪い取る者は、神の国を受け継ぐことはありません」

 この箇所は、LGBTを差別せず、教会に迎え、ともに十字架の下に立とうと、胸襟を広げる牧師でさえ、その性行動の罪深さを指摘するときによく用います。かつて同性による性行為に染まっていた者が、信仰を持つようになったら、二度とそこに戻ってはならない。だれもが罪を犯す。それを悔い改め、神の国を相続する者とされたのであるから、同じ罪へと戻ってはならない。LGBTの場合、祈りや矯正プログラムをもっても心の性を変えることに努める。その変換ができなくても、キリストの徳を身につけ、御霊の実を結ぶことはできる。しかし、同性同士の性行為に及んだ途端、もはや「神の国を相続する者」ではない。その主張の根拠が、この聖句です。

 特にLGBTの性行為として問題にされるのが、上述聖句の下線部です。ところが、そんなに単純ではありません。「男娼となる者」はマラコイです。聖書ではあまり出てこない言葉です。マタイによる福音書11:8では「柔らかな布」と訳されています。ギリシャ語文献を見ますと、「意気地のない者」、「女々しい者」(男らしくない者)、「自堕落な者」を指します。次の「男色をする者」は、アルセノス(男)+コイテ(寝る)です。『七十人訳聖書』では、レビ記19:22の「男と寝る者」のギリシャ語訳として、この言葉が用いられています。いつの間にか、マラコイを同性による性行為の受動者、アルセノコイタイを能動者と考え、あたかもこの二語がペアになって男性同士の性行為を禁じているかのような印象を作り出しました。

 しかし、コリント教会の背景には古代ギリシャ・ローマが好んだ「少年愛」の文化があります。敗戦国から連れてきた少年を召使いとし、かわいがり、女装をさせ、成長すれば髭を剃らせる。プラトンは女性に溺れることなく、少年を愛することは高尚なことであると考えていました。逆に、少年愛の実態を鋭く批判する哲学者もいました。「ローマのソクラテス」と言われたルフスは、少年愛を「男性の『さが』(性)のどすぐろさ」と呼びました。贅沢で放蕩な人生は、過剰な性欲につながり、その過剰さは一般的な女性を対象とする愛では満足せず、男性をも性的対象としていく、と。

 この2語が出てくる文脈を考えてみましょう。パウロはコリントの信徒への手紙第一5章から連続して「淫らな行い」を批判しています。1節では、「父の妻と一緒になっている」。また、11節では、「淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない」と。さらに、6章の後半には、遊女と交わることが批難されています。

 コリント教会の社会文化的背景、そして書簡の文脈から、全体像が見えてきます。パウロが退けているのは、LGBTの問題ではありません。批判のターゲットは、性的欲望を満たすためなら、あらゆる可能性を探るような性的マジョリティーに属する者です。ターゲットは少年愛を高尚な愛と考え、それを制度化してしまうような社会、あるいは女性よりも男性を好んだ性的嗜好を退けています。コリントの性文化を無視して、この聖句を現代のLGBTと同性による性行為に当てはめても、「神の言葉に返る」ことにはならないでしょう?

 聖書解釈において、原著者が原読者に何を語っているのか、また文脈はどのようになっているのかをまず考慮するのが原則でしょう。訳語を見つけることは難しいことですが、筆者は、マラコイは「自分を律することができず性的に自堕落な者」、アルセノコイタイは「女性との性愛では飽き足らず、その対象を同性に求める男性」、あるいは「古代ギリシャ・ローマの少年愛・男性性嗜好を実践する者」と考えます。

 男が男と寝るという時、現代の社会ではLGBTによる性行為を思い浮かべますが、古代ローマでは普通に女性を妻としている男性が、同時に男性と寝ていることを思い浮かべます。もちろん、当時の社会にも現代と同じくLGBTは存在していたことでしょう。しかしパウロの批判は彼らに向けられたものではありません。マラコイとアルセノコイタイの二語は、「淫らな者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、人を罵る者、奪い取る者」と同列に並んでいます。パウロは性的マジョリティーの人々による自己中心で欲と快楽に溺れている生活を批判しているのではないでしょうか。もっとも性的マイノリティーが同じように情欲に溺れるのなら、同じ批判を受けることになります。

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