【書評】 『神学の小径Ⅴ 成就への問い』 芳賀 力

 「(本著は)私自身の神学的主張というよりも、むしろ自分の神学的求道の道すがら出来上がったようなものである」

 しかし、著者の「あとがき」とは裏腹に、もはや神学的求道の域を超えた物語る教会教義学は聖書と神学の世界における「深淵」へと我々を招く。

 本書は、終末までの人間と(この)世界の在り方について教義学的(な)視座から語り尽くしている。そこには教会や宣教、説教という神学的テーマから労働や文化、結婚から政治まで包括的かつ緻密に論じられている。

 聖書は「創造」から「終末」までを一つの歴史として貫く。一方、教会の説教やキリスト 者の神学には始点と終点を強烈に意識しすぎる傾向がある。特に終末への過度な渇望は信仰を彼岸的なものへ変移させ、今を生きる意味すら見失わせる。そこには、ある種の現世否定や現実逃避が含まれているのではないだろうか。

 本著はそのような視点を逆転させる。著者の言葉を引用すれば「中間時」である現在を生きる私たちに神は「否定的なものに囲まれてもなお希望を抱くことが出来る」ことを物語っていると述べる。

 聖書は苦難を「嘆きの谷」(詩編84編6~8節)と表現している。それはこの言葉が記された時代だけに通ずるものではない。例えば昨今の戦争や政治による社会情勢の不安定さ、孤独や差別といった表面化されにくい個人の生きづらさなど私たちの生活には多くの嘆きがある。

 そのような中で私たちは今こそ視圏を拡大すべきであり、それは「聖書の正典的解釈」から発生すると著者は述べる。ここでの正典的解釈とは「世界を神の救済のオイコノミア(経綸)から解釈する世界の見方」であり、「世界の過去・現在・未来の流れを、父なる神による創造・御子による救い・聖霊による成就という神の運動の歴史として見ること」である。それを可能とするのは聖書が「ただの古文書の寄せ集め」ではなく、「贖罪をクライマックスとした創造から終末へと向かう神の救済の歴史を物語っている」からであり、その物語を信じ、生きる営みの中で人間は「私たちの前ストーリーが聖書の原ストーリーによって変革され、神と共なる後(ポスト)ストーリー」を生きるようになるのである。

 ポストストーリーの視座を備えた生き方は、例えば生命(へ)の価値観すら変える。功利主義(社会の幸福を人間の幸福と捉える視点)がマジョリティの社会において、一人ひとりの生命の価値は共同体への貢献度によって権威が判断する。他方、聖書が語るのは「人間は創造者なる神によって生を贈り与えられた存在」であり、「生きるに値しない者など一人もいない」ということである。この点において人間に価値の差異を神は一切認めていない。

 また現在を生きる私たちにとって、神学的主題は何をもたらすのかについても言及。例えば説教について、著者はイザヤ書52章を引用し、「エルサレムの廃墟」(イザヤ52章9節)の時こそ神は預言者を遣わして民を慰めたことに注目し、「今は苦難の時だが、実に『苦難の僕』を通して救いがもたらされる」という神の約束を想起することを促す。同様にパウロも異邦人の只中で「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントの信徒への手紙二6章2節)と高らかに宣言したことにも注目。この点から「説教者は、この良い知らせの伝令として世に遣わされている」のであり、これこそが人間の如何なる状況も変貌させる「罪と死を滅ぼして甦られた方についての喜びの使信」つまり福音である。

 他にも今を生きる人間と社会が抱えるあらゆるテーマについて、徹底的にポストストーリーの視点から解釈する本書は、「『嘆きの谷』にいる人間を再び立ち上がらせる希望の解釈学」となり得るであろう。400頁を超える大著である。しかし丁寧に1枚ずつ頁を開くならば、そこには神の息吹と生き生きとした聖書の物語を感じ取れるであろう。神学者や牧師、一般信徒を問わずあらゆる人の信仰的土台を形成する待望の1冊である。

【新刊】 『神学の小径Ⅴ 成就への問い』 芳賀 力

【5,500円(本体5,000円+税)】
【キリスト新聞社】978-4-87395-813-2

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