【映画評】 『娘は戦場で生まれた』 紛争地に響く痛切な祈り 2020年3月10日
「サマ、あなたのために撮った。理解してほしい、パパとママの選択の理由と、何のために戦ったのかを」
アレッポに暮らす女性ワアドが、自国市民を殺戮するシリア政府軍に囲まれてなお、子を産み育てると決断する。“For Sama”(サマのために)を原題とする映画『娘は戦場で生まれた』は、母から娘への語りかけで全編が占められる。映像は凄惨の極みを尽くす。医師である夫の勤める病院には連日血塗れの人々が運び込まれ、幼児も赤子も次々に死んでいく。病院自体が攻撃され、隠れて廃墟に開いた野戦病院もまた爆撃機の標的となる。
内戦のシリアを撮る映画は、日本でも過去少なくない数が公開された。『希望のかなた』や『セメントの記憶』のように、国外へ脱したシリア難民を描く秀作群も記憶に新しい。しかしその多くは作品水準の高さに見合う動員実績を残すことなく、短期の公開に終わってきた。もはや人々はシリアと聞くだけで眉をひそめ、心を閉ざしてしまうかのようだ。にもかかわらず、同地から続々送り出される作品の配給を買って出る者は、世界中になお現れ続ける。使命感からだけではない。映画そのものの質が年々上がっているからだ。本作『娘は戦場で生まれた』はこの意味で、過去の傑作群すべてを凌ぐとさえ言える。
生命の危機に曝されても、そこに残ろうとする人々がいる。熾烈な爆撃を日夜浴びながら、生活の営みは続けられる。育ち盛りの男児や老婆がつぶやく、去ることへの躊躇。土地と人との関わりをめぐり鋭く再考を迫られる。そうして映画はなおも娘へと語り続ける。そのあまりにも切実な願い、訴え。声音に宿る絶望、恐怖。母の言葉には両腕に抱く赤子の娘へのみならず、言語を解するまでに育った未来の娘への想いが込められる。娘の成長、ただそれだけのことが実現不能にすら映る現実の下、母の語りは痛切な祈りそのものとして響く。
本作を観てすぐに想起されたのは、シリア紛争映画の嚆矢となった2014年作『シリア・モナムール』だ。こちらでは激戦地ホムスで隠れて撮影する女性シマヴが、SNSを通じ映像を国外へ送り続ける。両作に通底するのは一人の女性による、人類史の帰結として眼前する凄絶を等閑視するかのように貫徹されたナレーションの醒めたトーンだ。それは大国間の綱引きとか政府の人道的責任といった大文字の国際情勢に傾きがちなシリア報道や、対岸の火事のように事態を座して眺める我々の冷えた心臓を突き放す。シマヴは政府軍に隠れ寺子屋(マドラサ)を開校するが、革命を目指す同志であったはずの自由シリア軍に囚われる。『娘は戦場で生まれた』の語り手ワアドは、野戦病院へ遺体となって運び込まれた幼児の母親がすでに死んだと知り、嫉妬する。わが子を埋葬する痛みを知らずに済むからと。ワアドらの仲間もまた次々に命を落とし、あるいは危険を覚悟で街を去っていく。いよいよアレッポ陥落が近くと、親子にある重大な決断が迫られる。
「政府軍と同盟軍は私の街を破壊し尽くした、そんなことを世界が許すとは思わなかった」
陰惨な日常の内にも結婚や誕生など、喜びと光差す一瞬とを封じ込めた映像の連なりのあと残響するワアドの言葉は、あまりにも重い。(ライター 藤本徹)
渋谷シアター・イメージフォーラムほかにて全国順次ロードショー中。
『娘は戦場で生まれた』 “For Sama”
公式サイト:http://www.transformer.co.jp/m/forsama/
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