【東アジアのリアル】 「我哀しむ故に我在り」の不在を考える――梨泰院雑踏事故を受けて 洪 伊杓 2022年12月1日

 2022年10月29日の夜、ソウルの梨泰院で毎年開かれるハロウィンフェスティバルに参加した若者158人が圧死する惨事が発生した。その中には日本人2人を含め、14カ国から来た若者26人も含まれていた。翌日の主日礼拝、待っていたかのように保守派や大型教会を中心に梨泰院祭りに参加した若者を非難するメッセージが伝えられた。保守右翼の全光焄牧師は「主日聖守(礼拝厳守)し、教会に熱心に通う者がそこに行っただろうか。行く時間がないだろう。……ケルト族が作った異邦の偶像を崇拝する暦がハロウィンなのに、これが米国に来てクリスマスよりも華やかな祭りになってしまい、米国の福音の敵になってしまった」とした。

 その他、教会の説教やSNS世代には「そんな場所に行かなかったら事故がなかっただろう」「遊びに行って死んだのになぜ哀悼すべきなのか」など、犠牲になった若者たちに責任を負わせようとする意見が多数見られ、論争がより激しくなった。ハロウィンを悪魔とみなし、そこに参加した人々も堕落した結果、裁きを受けたという見方が韓国のキリスト教界に蔓延している。

犠牲者の遺影と向き合える場所がないので、朴在東画伯や朴チャンウ作家などがフェイスブックで公開した共同遺影。「10.29惨事の犠牲者の方々に深い哀悼を表し、大切な家族や友人を失った方々が慰められることを心から祈ります。(ロウソクと共にする芸術家たち)」と記されている。

 これを機会に韓国では現在ハロウィンを巡る論争がまた激しくなっている。ハロウィンが悪魔的な祝日であれば、古代ローマで「太陽が生まれる日」として祝う冬至の祭りをキリスト教が受容したクリスマス、そしてそのシンボルになっているコカ・コーラのサンタクロースのイメージもすべて否定すべきなのか、文化的な要素は区別する必要があるという反論もあった。

 実際に、植村正久も日本の伝統である新嘗祭をキリスト教化することで欧米のクリスマスのような新たなキリスト教の伝統になり得ると考えた。「新嘗祭(にいなめさい)をキリスト教化するということを考えて見ると、この事実のうちに日本におけるキリスト教発展の未来記が表われて居るような心地がする」(植村正久「新嘗感謝礼拝とキリスト教の適用」『植村正久著作集』7、264頁)と述べ、教会で「収穫感謝礼拝」を「新嘗感謝礼拝」と名づけて実施しようとした。

 尹錫悦大統領夫婦のアドバイザーとして知られている新宗教家「チョンゴン」は、自らのYouTubeチャンネルで「天地の鬼神を真似ることは無秩序に動いている社会で行われることで、これからはなくすべきである」とハロウィンの廃止を主張した。その後、惨事が発生すると、11月2日のYouTubeで「良い機会が与えられた。子どもたちが犠牲になるにしても、このように大量の犠牲がなければならず、これにより世界の注目を集めることになる。……この犠牲の実りとして、このような機会をうまく活用し、世界を照らさなければならない」と語った。

遺影と位牌を設置せず「梨泰院事故死亡者合同焼香所」という看板で参拝する大統領と官僚たち(『時事ジャーナル』)

 10万人以上の群衆が予想されたにもかかわらず、毎年動員されていた警備はまったく配置されなかった。ただ、現法務大臣が推進した「麻薬との戦争」に力を入れ、麻薬及び性暴力に対する私服警官のみ投入し、惨事の原因を作った。市民の安全と命に無関心だった政府や地方自治団体(ソウル市、龍山区)などの安全神話や怠慢が原因だが、その後の対応はさらなる衝撃と怒りを生み出した。行政安全部長官やソウル市長と区長などは責任回避に徹し、「惨事の犠牲者」という言葉の代わりに「事故の死亡者」という表現を公式用語としてマスコミを統制した。尹大統領は急遽五日間の「哀悼期間」を宣布し、犠牲者の遺影や位牌もない合同焼香所を設置して自身も5日間毎朝参拝した。韓国のマスコミで犠牲者の名前と顔はまったく報道されず、海外からの情報でようやく確認できた。2014年4月16日、304人の犠牲者が出た「セウォル号沈没事故」の時、死亡者の遺影や位牌がすべて公開され、遺族と市民社会の連帯が生まれ、朴大統領の弾劾にまで至った時のようにならないためだったとの批判が多い。

 自らの死に対する不安や恐怖にあくせくするよりも「他者の死」の前で真摯に跪き、責任を感じることを求めたレビナスの倫理学と他者論を想起すべき韓国社会の姿だ。「政治ショー」「虚偽と欺瞞」によって韓国では「哀悼」という言葉がひどく汚されている。「真の哀悼」とは亡くなった人々の名前と顔に対面し、記憶することで可能であり、そこから始まる。デカルトの「我思う、故に我在り」が築いた「思惟主体と自己陶酔の時代」(一方性と暴力性の矛盾と限界)を乗り越えるため、ジャック・デリダが語ったこの言葉を再考しなければならない。「私は哀悼する故に存在する」(I mourn therefore I am.;1990年のインタビュー中)

 ほん・いぴょ 1976年韓国江原道生まれ。延世大学大学院修了(神学博士)、京都大学大学院修了(文学博士)。基督教大韓監理会(KMC)牧師。2009年宣教師として渡日し、日本基督教団丹後宮津教会主任牧師などを経て、現在、山梨英和大学の宗教主任。専門は日韓キリスト教史。

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